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自分語り?哲学? Archive

納得の正体

以前に “人に教える” で
「納得と理解はまったくの別物」 だと書いた。
これは、辞書では同じものらしい。
確かに単語の意味だけを見れば同じだろう。

常々、“悩む” と “考える” を別物だと言っている私の説も
上と同様に、多分辞書では同じものだと書かれていると思う。
(調べてから書けよ、と突っ込まれそうだが)

私が同じであろうこの2つの言葉を、「違う」 と言い張るのは
思考に心というものが介在してくるゆえに起こる矛盾である。

もう、初手から間違っているであろうが
脳というのは、心を納得させる器官だと思っている。
体中のあらゆる部位から入る情報は、まず脳に送られ分析処理される。

そこで過去に経験した事例だと、心は安心して次の行動に移れる。
しかし未経験の事柄だった場合には、心が不安になる。
つまりパニックを起こすので、それを落ち着かせるという処置になる。

ここで、「頭ではわかっていても、気持ちが納得できない」
という現象がしばしば起こりえるのである。

たとえば、親が病気で突然死んだ場合など
親は先に死ぬものだと、周囲の大部分の先例を見て理解していても
病気になったんだから、しょうがないと死を理解していても
心がそれを納得しない場合も多々あるだろう。

親しい人の突然の死など、頭ではどう考えても
心の底では納得など出来ないものだから。
逆に言えば、納得できる死の方が珍しい。

殺人事件の被害者遺族など、加害者が死刑になろうと
本当ならば納得できるものではない。
脳が、犯人の死と償いをイコールで結ぶように
方程式を必死に作って、心をなだめているにすぎない。

脳というのは、本来は情報の分析認識蓄積を行なう器官だが
それは心を説得するためにやっている面が大きいと思う。

物覚えの悪いヤツ、頭が固いヤツは
自分の脳ですべきこの説得作業を
教えてくれる他人に押し付ける傾向にある。

数学など、不変の法則がある分野なら良いが
というか、それなら納得もへったくれもないわけだが
世界は不条理に満ちているのに、その納得をさせてくれなど
他人に望むのは図々しい以外のなにものでもない。
そういうのを、“自分の頭で考えない” と称するのだ。

他国の紛争など、大抵が宗教観が根底に根付いていて
その説明をしても、無宗教の日本人には納得など出来ない。
そういう時は、事象として受け止めるべきなのである。

納得できないから、信じられない。
もっと他に明確な理由があるはず、と思うだろうが
それは自分の脳内のデータにないだけの話である。

物事を考える場合に、感情というのはよく冷静な判断の邪魔をする。
“納得” というのは、実に感情的な要素を多く含む。

人は往々にして、納得するために “考える” のではなく
“悩む” という思考形態をとる。
これは、感情が邪魔をする思考を、更に感情で処理しようとするので
肝心の本題に行き着くのに、どれだけ時間が掛かる事か。

そうやって得た知識は、ほぼ死守される。
状況が変わっても、時代が変わっても
そいつの中ではそれが固定されてしまい、応用や臨機応変はない。

新しい知識を得るのに、いきなり拒否反応を示すのは
知識取得に費やした自分の行為が、無になる事への怒りなのだろう。
そんだけグチャグチャ悩んでれば、労力を惜しむのも無理はない。

人間は感情の生き物で、感情を重視するのは当然だが
それも時と場合による。
常にそれに固執するパターンを作ると、逆に不利益になると思う。

おめえの納得なんか、知ったこっちゃねえよ
と、誰も何も教えてくれなくなったら、世界が更に狭くなると思うが。

何様な女性

西川史子が嫌いな芸能人に挙げられていると知って、意外だった。
あの何様な発言が嫌われる原因だと思うが
あんな絵に描いたような何様キャラなど、ただの芸風だろう?

たとえあれが素だとしても
美人でお金持ちで医師免許試験に受かる知能があるんだから
充分に天狗になれる資格があるじゃん。

そこがシャレとして受け止められず、嫌いだと思うんかも知れんが
何の根拠もなく天狗になってるヤツよりは、はるかにマシだろう。
はい、ここ、「おめえだろ」 と突っ込むとこですよー、っと。
(棒読み)

西川史子が言ってたが、「私は夫には尽くしたいタイプなんです」
に、「はあー?」 とか言われてたが、私には何となく理解できる。
「夫にする男性は、このわたくしが尽くしたくなるほどの男性」
という気持ちであろう。

これがわかると言っている私も、同類かと疑われそうだがとんでもない。
決定的に違うのは、私は最初から完璧な相手じゃなくても良いとこ。

ま、その理由が、「大丈夫、私が鍛えてあげるから」 で
お陰で最近は、男性を打たれ強いかどうかで見るようになってしまい
これで私の老後は、孤独死決定も同然である。

私は、何様な女性が好きである。
私の周囲は、私の母親を含め、何様な女性が多く
そういうヤツの話は、とても面白い。
ウジウジしたヤツと話すと、こっちまで落ち込むが
何様な女性の話は、すがすがしい気分になる。

今話題の沢尻エリカも、好きだった。
何故 「だった」 かと言うと
あの仏頂面試写会の後、インタビューに出てて
フツーの女の子にしか見えなかったからである。

えれえ固いスイカだと予想して
渾身の力で切りにいったら、あっさり切れるどころか
勢い余ってグチャグチャ、みたいな
ようするに、肩透かしをくらった気分。

あの沢尻エリカ伝説は、単なる天狗だったんかキャラ作りか
いずれにしても、最後まで貫き通してほしかった。

あれは事務所が悪いんじゃないのか?
可愛子ちゃんキャラばかりじゃ飽き飽きだぜ。
反感を買いすぎない程度に、高飛車にしとけば良かったのに。

逆に不快感を持つのは 「どうせ私なんて」 と言うヤツ。
こういうヤツに限って、努力をしているようでしていない。
限界設定がえらく低い上に、努力をムダと捉えているように思える。

生まれ持った個人の性格も多少は影響があるだろうが
努力は実を結ばなくても、すればするだけ自信に繋がるのに。

こういうヤツは、他人の設定も自分基準で勝手に決定する。
他人が自分の決めた設定にそぐわない事をしていると
バカにしたり、陰口を叩いたりする。

「いつまでも若いつもりで」
「いいわよね、あそこのお宅はご主人の稼ぎが良くて」
など、ほんといらん世話で、おめえに何の関係が? と思うが
これは明らかにネタミやヒガミに見えて見苦しい。

もしかして世間に横行しているイジメの原因は
こういうわけわからん嫉妬も要因なんじゃないのか?

だったら、イジメられるヤツは誇って良い。
人間、妬まれてナンボだろう。
どう考えても、妬むより妬まれる側の方が華。
気にして悩む必要などどこにもねえじゃん。

こういう対比で、何様の方が良いと思っているわけだが
やっぱり日本的美学では、何様は好まれないような気がする。

でも外国人の何様は、ほんとシャレにならんので
それを考えると、日本の何様は謙虚さもあわせ持ってて
完璧な何様は滅多にいないのかもしれない。

私の場合も、よく何様扱いされるが
自分でも、確かに何様だよな、と思う事もままある。
でも、そう自覚する事自体、謙虚な証じゃねえ?

ちなみに、図々しいという印象があった関西人だが
思いがけず謙虚なヤツが多いのに驚いたぞ。
一番、何様なのは、井の中の蛙な田舎者かもな。
だったら私の何様も、しごく当然なわけだ。

人に教える

覚えんヤツに教えるには、秘策がある。

 バカには、“わかったバカ” をあてがえ

私は教え方が割に上手い。
それは自分がバカだから、バカのツボがわかるのだ。
だから自分が理解した事なら、それはもうピンポイントで伝授できる。

覚えないヤツは、枝葉にこだわるタイプが多い。
Aを教えるため、まずBの仕組みを教えた、といった場合
肝心のAに目が行く前に、Bに執着するのだ。
しかもAを直に教えた場合は、疑ってくれるという
非常に面倒くさい性質もあわせ持つヤツが多いので、やっかいである。

このタイプには、「A。 何故ならばB。 要点はA。」 と
出来るだけ簡潔に教える必要がある。

人は、ひとつを教えようとする時に、わかりやすくと配慮して
例え話や、付属の説明なども交えて説明する。
その脇役の説明が多すぎて、知らないヤツは逆に混乱するのである。

いらん例え話は式典の長い祝辞と一緒で、うっとうしいだけである。
物事の要点をボカしてしまう。
文章も箇条書きが一番読みやすいのと同様。

教えてる最中に、わかっているのか不安が生じたら
「何でこうなるかわかる?」 と、質問で確認すべきである。
アホウは、意外な部分に着目するのが常だから
脳内で、常人の予想もつかない変換をしてる場合が多々あるぞ。
(・・・私だが・・・)

私は普通に口頭で教えて覚えてもらえない場合は、必ず紙に書かせる。
この方法は時間も掛かるが
何度も同じ間違いをしてくれるなら、しょうがない。

ノートを1冊用意し、最初の数ページを目次にし
本文をひとつ書く度に、目次ページにタイトルを付けさせる。
たとえば、「○月○日 プリンター設定法」 みたいに。

本文は、1行目にデカくタイトルを付けさせ
1.○○○・・・・・
2.○○○○・・・・・
と、箇条書き。
何かあったら、そのノートを見るという習慣を付けさせるのである。

一見、えらく手間が掛かるような気がするが
何度教えても覚えてくれず、その都度1から説明を繰り返すのを
未来永劫繰り返す方が、余計に手間も時間も心的疲労もデカいだろ。

この方法は、自分が明らかに教える立場なら有無を言われないが
同等の場合、ヘタをすると 「何様?」 になるので
もっていき方に気を遣わなければならない。
あくまで親切ごかしで、「ね? ね? 便利でしょ?」 と 
“善意” を装う必要がある。

特に目上の人には、初手から反発されて出来ない。
そういう場合は、自分で書き、壁に貼るか
「困った時ノート」 というのを
“勝手に” 書いて、相手のところに置いておく。
自分もそのノートと同じ内容を作って手元に持つ。

電話で質問された場合、「ノートの何ページ目」 と答えていれば
自然にそのノートに頼ってくれるようになる。
質問する側も、楽しくて何度もしてるわけではないからだ。
(構ってもらいたいヤツも中にはいるが)
年寄り相手には、文字を3倍大で書いておくように。

何かというと、ノートを見る癖がついたら
自分で調べるという段階に、1歩進んだ事になる。
私はこれで、親の 「家電わからん。 してくれ」 攻撃をしのいだ。

これは仕事では無理だろう、と思うかも知れんが
充分に応用できるんだ。

ひとつ、人間の心理として、手書き文字の威力を利用してほしい。
仕事上では印刷した文字だけしか使用しないが
手書き文字の方が、不思議と頭に入るのだ。
バカは、教科書とか説明書とかが大の苦手なので
印刷文字というだけで拒否反応が出るのかも知れない。

だから、教えるにはまず手書き。
しかも読みやすい文字間と行間と文字の大きさで、箇条書きメインで。
子供の絵本が良いお手本である。
覚えない、というのは、私のように長文が読めない可能性もある。

あと、教える時は優しく、まで希望はしないが
ごくごく事務的に淡々とした態度を一貫するように。

怒ったりすると、感情面に気を取られるし
「自分に都合のいいように動いてくれよ」 という
傲慢さに解釈されたら、反感を買うからである。

「こいつの言ってる事は、当たり前の常識なんだー」
という錯覚を起こさせる方が、言う通りにしてくれるってもんだ。

何にしても、覚えないというのは
そいつの性格の何かに原因があって、吸収を阻害していると感じる。
“理解” と “納得” は、似ているようで違う。
覚えないヤツは、これを混同している場合がよくあるので
ある意味、洗脳みたいな技も必要になってくるわけだ。

人に教わる

知能は置いといて、覚えるのが困難な性格というのがある。
それは、「納得できないと理解できない」 というヤツ。
こういうタイプは、ひからびたナメクジのようなもので
いくら水を与えても吸収しない。

物事を覚えるには、教えてくれる人を信頼し
無条件で、全部を飲み込む素直さがすげえ大事なのだ。
それがないと、知識の蓄積に限度が生じる。

何か違う、と感じたのなら、後で脳内修正すりゃいいだけ。
知識というのは、DVD-RじゃなくDVD-RW。
いくらでも上書き出来るものなのだから。
(PC人ぶって例えたけど、これ、合ってるよな?)

大体、「納得したい」 とは
自分の狭く小さい脳みその範囲に
壮大な真理を収めようとしているに過ぎない。
そんなムチャが出来るわけがないだろう。

知ろうとしている事は、大勢の専門家が長年研究し続けてて
一般人は、そのほんの一部を取り入れて役立てる。
つまり、恩恵なわけだ。
物事の真偽など、一般人に解明できるわけがない。

他人がやって失敗した経験談なども
「おまえはいちいち、つまづいて転ぶ必要はない」
という、ありがたい忠告なのだ。
それを自分が体験しないとわからないのなら
痛い目に遭いまくりな上に、小さい知識しか持てないままである。

ようするに、物事を自分の脳みそのカタにはめようとすな、って事。
自分の軽い脳みその、分をわきまえて
情報はとにかく一旦受け取って、取捨選択はその後である。

新しい事、知らなかった事に対して
とにかく疑ってはねのけるという、無知の恐怖を持ってると
どんどん頭が固くなっていくぞ。

覚えが悪いという欠点は
私のように人に非難されまくる位置付けにいないなら
本人の自覚が薄い場合がほとんどである。
頭が固いというのも同様。

また、教えてもらう態度が悪いヤツも多い。
そもそも、こういうヤツに限って、恩知らずにも
「教え方が悪い」 などと、難癖を付けてくるものだが
悪いのはおめえの性格だっちゅうの。

改めないと、人に見放されるハメになる。
常に自分に疑問を持つのが、ひとつの策である。

家事が大っっっ嫌い!

でも、ちゃんとする。

家がキレイじゃないと気分が悪いし、清潔じゃないとイライラするし
きちんと飯を食わんと健康が保てないし
メイドがいる身分じゃないので、自分でするしかない。

掃除や炊事など、めんどくてめんどくてしょうがない。
でも、ちゃんとやった後は、晴れやかな気持ちになるので
それを希望に頑張る。

しかし、性格的に耐え忍びつつ物事をするのは不可能なので
やり甲斐が出るよう、脳内で己を暗示に掛ける。

以前は、発奮させるために 「うりゃあ! うりゃあ!」 と
気合いを入れる、オラオラ商法をやっていたが
これよりもっと効果がある方法を見つけた。

それは、ありがとう戦法。

年末の大掃除が苦痛でしょうがなかった時にあみ出した技で
「今年も1年、どうもありがとうございました」 と
家に感謝の気持ちを持って掃除すると
何か自分がとても善人になった気がして
自然と掃除にも念が入る、という仕組みである。

(前回の大掃除は、どうしてもやる気が出ず
 心の中で 「ありがとう、ありがとう」 と、唱えつつやってて
 我ながら、どういう宗教だよ? と、ちょっと不気味だったよ。)

それ以来、「ああー、めんどくせえ」 と思った時には
まず、感謝の気持ちを持つ事にした。

部屋掃除も風呂掃除もトイレ掃除も
「いつも使わせてもらってありがとう」 と、唱えつつする。

一体誰に 「ありがとう」 なんか、よくわからんし
妙に宗教っぽくなってるのは年を取ったせいか?
ちょっとでも善人ぶろうとしてるのは、まさかお迎えが近いんか?
と、我ながら疑問の渦中にいるが
優しい気持ちになれるのは、自分が幸せな証しだろ。

何を怪しい画策をしとんのか
印鑑証明を送れだの、わけわからん書類に判子を押せだの
うるさい要求をしてくる兄にも
「実家を守ってくれててありがとう」
「お米を送ってくれてありがとう」
と、思いつつ役場に行く、といったように
この考え方は、幅広い応用ができる。
(実家を守るどころか、着々とゴミ屋敷にしてくれてるといった
 都合の悪い現実は、とりあえずお置いといて。)

これはプラス思考だと思われるかも知れんが、それは違う。

普通の人は、面倒くさいなど思わない事でも
私はイヤだと思ったら、指1本すら動かしたくないのだ。
言わば、私が人間らしく生きるための知恵である。

私はまさに、着替えすらお付きの人にやってもらう生活を
送るべきな性格を持ってるのに
お付きの人などいるわけがない環境に生まれた
悲劇のヒロインなのである。

ああ、生まれる時代を間違えた・・・。
(大昔に生まれてても、女工とかやってたような気がするが)

と、こういうくだらん空想をしてても、何の進展もあるわけでなし
我がの飯は、我がで作るしかねえので
今日も食材にありがとうありがとうと思いつつ
クソめんどくせえ飯作りに勤しむのであった。

若者よ、隠れて悪さをしろ!

いや、悪さなんてしないほうが
お姉さん (図々しすぎる? ほっとけ!) は、ほんと安心。

でも大人になる過程で
先人たちの言う事を鵜呑みにする気はないんだろ?

ジジババの忠告ってのは、ものすごく真理を突いている。
彼らが先に転んでケガをしてくれ、その経験から
ケガをしなくてもわかるようにと、親切に教えてくれているんだ。

しかし、それをそのまま受け取ったら、事故は減るかも知れんが
人生を自力で冒険する楽しさが減るよな。
だから、少々道を踏み外しても良いと思う。

ただしそれは取り返しがつく範囲で。
性病感染や中絶、薬物使用は取り返しが付かない事になりかねない。
この、やっていい悪さと、いけない悪さの境い目がわかるか?
だからうぜえ大人の小言を、うっすらでも聞く必要があるのさ。
それを自分なりに取り入れられる素直さが、悪さをする資格になる。

「皆やってるから」 などと流される個性のないガキは
後で絶対に後悔するから、大人しくしとけ。
こういう判断の鈍いヤツがラクな方に流されるってのは
ほとんどが、ロクでもない結果しか招かないんだよな。

さて、それで何故、“隠れて” しなければいけないのか?
悪さってのは、字のごとく悪い事。
大人たちが必死で止める事である。

それを堂々とやってるのは、善悪の判断も付いていない証拠で
そんなバカに、人生のための経験としての一時的な悪さを
する資格はないって事。
開き直りってのが、一番見苦しい態度なのもわからない
単なる頭の弱い不良でしかない。

こういうヤツは、その内に周囲に見放されて
孤独を抱えて生きていく悲劇が待つ。

これをわかってるヤツなら、悪さは隠れてする。
一時的に横道にそれても、戻ってくる自信があるからだ。
ロクデナシどもに囲まれて生きる気も、さらさらないので
真っ当な人間に愛想を尽かされたくないわけだ。

大人になってわかる事は、同じ街に住んでいても同じ職場でも
明らかに人種の違いがあるって事だ。
人権擁護派が何と言おうと、これが現実。

人に見下されるような性格になったら
よっぽどのバカでもない限り、人生が楽しくない。

「大人って汚い」 と非難したくなるかも知れんが
ロクでもねえヤツの基本性能は、他人に迷惑を掛ける事。
誰が好き好んでそういうヤツと付き合いたいよ?

よって、自然と周囲に放置されるようになり
残るのは同じような迷惑野郎ばかりになる。
似たもの同士、迷惑の掛け合いをやっててくれ、って感じ。

こういう立場になりたくないなら
マトモな人間に相手にされ続けるよう
上手く自分の好奇心との折り合いを付けろ。
世間はいつまでも、子供だと甘い目で見てはくれないぞ。

後な、悪い事をすると、親が悲しむ。
親は自分の幸せのために子供を誘導してるかのように見えるが
そこには確実に子供に対する愛情がある。
子供を家族の一員と認めて、幸せになってほしいと願っている。

自分の事を想ってくれている人を悲しませると
いつか自分も同じ目に遭う。
因果応報ってやつで、迷信だと笑うのは勝手だが
そういう世の中の仕組みって存在するんだよ。

つまり、人を悲しませる言動を平気でしているヤツは
自分の選択する道も、その歪んだ心で決めるから
必ず間違った方向を選びやすいという、ごく普通の起承転結だ。

他人の存在も、自分の人生を形成する一部だと
気付かない知能の低さも、間違った決定を促す要因である。

弁が立つ大人ばかりじゃないから、わからんだろうが
大人ってのは、いつもこういう事を言ってくれてるんだよ。
それを読み取れないのなら、おめえは割にアホだ。
何をするかは、まず自分の能力を自覚してから選ぶべきだ。

シャットアウトせずに、真面目に話し合ってみい。
ムダに長く生きてるわけじゃないんだから、得るものは必ずある。

と、ムダに長く生きてる私が言うが。 ほっほっほ

人に注意する難しさ

昔、よく遊びに誘ってくる友人 (男) がいた。
それはいいんだが、飯を食い方がすげえ汚いのだ。

両肘をテーブルに付き、顔を皿に近づけて食う。
いわゆる “犬食い” ってやつだ。

しかも、料理をグチャグチャに食い散らかす。
そいつが食い終わった皿は
何の料理であろうとすべて、もんじゃ焼きだった? みたいな。

食ったのに量、増えてんじゃねえの? ってぐらいに
1個1個の品が、皿中にグチャグチャに移動転勤されている。

私も食い残すが、キチンと皿の端にまとめるなりする。
見た目に不愉快なだけじゃなく、作った人に失礼だからだ。

数度目の食事で言った。
「食い方が汚いよ。 気をつけろよ」
そいつは、「そうか? そんな事はないぞ」 と、言う。

こういう返事、たまに聞くよな。
指摘されているのに 「そんな事はない」。

バカか!!!!!

自覚していりゃ、しねえだろ。
自分で気付いてないから、人から注意を受けているのに
自信満々でいきなり反論かよ。

そもそも “注意を受ける” って事の意味をわかってるのか?
人から見て違うとか、おかしいと思われるから言われてるんだぞ?
気付いてない自分の感覚を、まずは疑うのが手順だろ。

そこで、そいつの食い方を真似して見せ
「こういう風に食べてるんだよ」 と言ったら
「そんな事はしてない、誰にも言われた事もない。」 と、怒る。

普通はもうここで諦めるだろう。
そして2度と一緒に飯は食わないだけだ。
だが、私は突っ込んで言った。

「他人は黙って心の中で思うだけだぞ。
 『どういう家庭で育ったんだ?』 ってね。
 おめえの親が悪く思われるんだぞ。」

そいつは、その言葉自体にとても傷ついたようで
その場は気まずく、それで終わった。

でも、次に食事をした時にも、まったく変わってなく
気をつけるそぶりもなかった。
そいつとは、その後色々あり、付き合い自体をやめた。

直らなくてもいい。
クセを直すのには膨大な時間が掛かるから。
気をつけよう、という気持ちを持てば、それでいいのだ。

私が嫌ったのは、そいつの汚い食い方ではなく
人が注意してくれた事を受け付けない
ファイアーブロック根性なのだ。

この話を人にすると 「よく言えたねー」 と、言われる。
“言えた” んじゃない。 言わざるを得なかったのだ。
周囲の客が不愉快そうに横目でチラチラ見るほどだったから。

誰でもイヤな事は言いたくない。
雰囲気が悪くなるし、最悪、仲が壊れる。

身体的な問題とか、自分じゃどうにもできない事なら
誰も悪く取らないし、逆にフォローするが
マナーとかファッションとか性格とか、努力や注意で変えられる事で
恋人や友人や仲間が、人に悪く思われるのはイヤじゃないか?

・・・と、思うんだが
本人にとっては、いらん世話なのかも知れない。

それに、私の言い方はキツいらしく
思いがけずに、相手を傷つけてしまう恐れがあるので
できれば、柔らかい物言いの誰かに委託したいのが本音。

「おまえ、人に言えるほど立派なのか?」
と歯向かう、腐れ根性の持ち主なら、まだ良い。

「アホか!
 その理論が通るんなら、人に注意できるヤツなんて
 世界中誰もいねえ、神様ぐらいだ。
 おめえは宗教に入って、壷でも買っとれ!」

と、バトれるからである。
人に注意するってのは、自分への確認の意もあって
双方ともに勉強になるんだよなあ。

私だったら、回りくどく言われても気付かないし
言いにくそうに気遣って言われると、逆に傷つく。
「おまえ、それ見苦しい!」 と、直球で言われた方が
「え? あっ、すまん、テヘヘ」 と、なんぼも気がラク。

でも、皆が皆そういう感覚じゃないだろうし
自分には空気が読めてない自信と、常識がない自信が
充分にあるので、見て見ぬフリもするし
指摘する時は、仲たがいを覚悟で言う事にしている。

が、顔に出てるんか、「何?」 と聞かれて、パニくったあげく
ズバーーーッと斬ってしまい、激しく後悔する事多し。

「騒がれたんで殺っちゃった」 という犯罪者と
本質的には変わらん気がして、すんげえ落ち込む・・・。

トラブル対策の心構え

みの生電話での浮気相談に対する答は
ほぼ 「今夜はお化粧してご主人を迎えなさい」 である。
妻の発情など、逆効果の家庭も多いんじゃないのか?
(どうでもいいが、あの “おもいっきり生電話” の字
 “おもいっき性電話” に見えんか?)

相談をするヤツは 「でも」「でも」 ばかりで
こいつ本当にどうにかしたいんかよ? 
単にグチを言いたいだけかな、と思う事が多い。

でも最近わかった。
人には規制が多いのだ。
環境的、関係的、性格的、様々な制約の中
それを1mmも壊さないように解決しようとするから
結局は 「やっぱり我慢すべき」 となるのである。

みのに浮気相談をしてくる女性が聞きたい事は
「相手が心から反省して、自分も納得できる解決法」 であろう。
そんなものはない!
だから、みのたちに軽くあしらわれるんだよ。

トラブルが起こった時に、自分が取る方法は2択である。

 ・ 我慢して平静を装う
 ・ 戦う

ほとんどの場合、我慢を選び忘却を待つ。
死ぬまで我慢し続けられるならいい。
だが、同じトラブルが何度も続くと、大抵のヤツは途中でブチ切れる。
溜めて溜めて溜めて、大噴火する。
(周囲に見逃されて生き延びている私みたいな
 無神経タイプには、これは一番やっかいである。)

延々、我慢して平静で “いられる” という状態が続けばいいが
何度目かの選択画面で必ず、“戦う” をクリックする時が来る。

私は最初から “戦う” の角をガツガツ曲がる。
(その気もないのに、いつの間にか
 バトルフィールドに迷い込んで 「あれえ?」 って事も多いが)

爆弾に入れる金属片だって、少ない方が破壊力が小さいだろ。
溜め込むほどに爆発力が増し、ヘタをすると関係を粉砕してしまうから
一気に開戦するより、小競り合いで済ませとけ、って感覚。

しかし私は恐竜並の鈍さの脳みそと
説教や文句も親切だと曲解する目出度さを兼ね備えているので
数少ない嫌がらせも、その場ではまず気付かない。

後日ふとした事で思い出し
よく考えると、バカにされたんじゃねえのか?
みたいな気分になるが、時間切れで、ああ残念、って事ばかり。

神様、実によく設定してるよな。
好戦的な本能は、周囲の人々に大迷惑を掛ける恐れがあるから
知能の弱さとすっとんきょうな性格で封印を施すとは!
お陰でホノボノとひとり花畑にいるようだよ。

トラブルに悩む人は、自分の取るべき道が
永遠の沈黙か、いつか来る戦闘かのふたつしかない事を
きっちりと理解しておくべき。

波風を立てず、双方根に持たない都合の良い解決法などありえない。
てか、自分が悩んだ時点で、もう波風立ちまくりだろ。

でも、どっかの夫殺し妻の言ってた 「やられたらやりかえす」
これをやってたら、そりゃもうワヤクチャだ。

てか、「仲直り」 or 「離別」 って結果だけだと思ってたら
いつの間にか 「殺される」 って項目が普通に増えてるじゃんよ。
ゴネるのも命懸けだな、こら。

「お互い様」 という思いやりを胸に抱き
より絆の深まるケンカを理想に掲げて聖戦するがよい。
(私が言うと、これほど説得力のない言葉もねえな)

うーん、書いてて思ったが、もしかして
「化粧して出迎える」 ってのも、戦いのひとつかも知れない。
女性の化粧は武装だしな。

みの、黄疸が出てそうな顔色のくせに、意外に深い事を言ってるんか?
(おめえが出ると、画面の色調整に不信感を持ってしまうんだよ!)

損と得

今、社会のモラルが問われている。
一体どうしてこんな身勝手な社会になったのかと
メディアで散々議論されている。
私には、この答はすごく単純なものに思える。

ほとんどの事を、自分の損得で考えるからだ。

得をしたい、と望まないまでも、損はしたくないだろう?
これがすべての元凶のような気がするぞ。

1円でも安く買いたい。
タダで貰える物は、いらなくてもとりあえず貰う。
電車では座りたい。
特別待遇をしてほしい。
各関係方面に知り合いがいると、何かと便利。
お金を拾った、得した。
割り込み車に譲ってあげたのにお礼の合図もなしかよ、ああ、損した。
何であの人だけ? 不公平。

などなど、これらの些細な事は、誰しもが思う事。
これらは別に悪い事ではない。

だが、良い事でもないような “悪い事ではない” 事の積み重ねが
世の中をダメにしていくのである。
人生を損得で考えていくと、社会全体がひずんでいく。
得の裏には、必ず損が存在するからである。
自分が喜ぶ陰で、必ず誰かが泣くのが現実なのだ。

こういう風潮になってしまったのは
“権利” という意識が勘違いされているからだ。
この言葉のせいで、自分の分をわきまえない輩が増えた。
ロクでもねえヤツほど、自分の権利を必要以上に主張したがる。

「『いただきます』 なんて言う必要はない。
給食費を払っているから、食べるのは当然の権利でしょう。」
 ♪ お ま え は ア ホ か ~ ~ ~ ♪
と、とことん見下して歌い踊りたくなったわ!!!

お金さえ出せばいいんかよ?
「いただきます」 を金換算かい?
そして、そのひとことを言うのが、そんなに損かよ?

この言葉は、食物を生産した人々や自然、料理を作った人々などに
「恐れながら、食事をいただかせていただきます」 という
物質的な物事に対するお礼だけじゃねえんだよ。

「じゃ、皆で一緒に食べよう。」 という合図も兼ねているし
もっと哲学的に掘り下げれば、今日も無事に生きて飯を食える
自分を、社会を、再確認する気持ちも含まれるんだよ。

これで納得できないなら、給食費を出してくれる我が親に対しての
感謝の 「いただきます」 で、どうだ?

これを親が教えなくてどうするよ?
こんなバカ親の存在こそが、日本にとって大損だろ。

“お互い様” という言葉は
時には自分の益にならないとわかっていても
スッと一歩引いて譲らないと、成立しない。

わかりやすいからと、お金を物事の基準にしたり
権利の主張ばかりしてたんじゃ、人間、クズになるぞ。
義務を果たせ、責任を持て、それがモラルだ。

イジメた経験

東京にいた頃の話。

私のクラスの女子は弁当派が多く
いつも昼飯は、数少ない外食派の女子と食いに行ってたのだが
その子らは、彼氏とデートだの、バイトだので休みの事も多く
そういう時は、他のクラスの女の子たちに誘われるのだ。
何故、違うクラスの子と友達になったのかは、覚えていない。

ある日、その他クラスグループと飯を食いに行った時に
いつものメンバーがひとりいないのに気付いた。

「今日はAは?」 と聞くと、休んでいるとのこと。
Aはすげえ騒がしくて苦手だったので、ホッとした。

それが顔に出てたのか、「Aの事、嫌い?」 と、いきなり聞かれた。
「うーん、うるさくてちょっと苦手かな。」 と、正直に答えると
「あしゅらもそう? 私も実は好きじゃないんだよね!」
と、別の子が同意した。

それから、飯を食ってる間中
Aがどうした、Aがこうした、の話題で盛り上がった。

その数日後、再びそのグループと飯を食いに行く事になり
その時Aはいたのに、置き去りにしていた。
聞くと、グループ内では皆Aに嫌気が差し、無視しているらしい。
その時もAの悪口ばかりだった。

うるさいAがいなくてスッキリしていたので
最初は一緒になって、楽しくAの悪口を言ってたのだが
Aがどんだけうるさいかは力説したいけど
Aの容姿や金遣いやクセなどの非難は、正直どうでもいい。

数回そういう状況になり、何か面倒くさくなってきた矢先に
自分のクラスの昼飯友人が、真面目に学校に来るようになり
自然とそっちの友人と飯を食いに行くようになった。
その後も見かけた時は、相変わらずAは仲間外れにされていた。

ある日、図書室にいたら、知らない女の子に話しかけられた。
「あなた名前は何て言うの? 私はB。」
その子は、Aやくだんのグループと同じクラスだが
バイトで長期間通学していなかったと言う。

Aと特に仲が良いようで、ふと見ると向こうにAもいる。
Bが 「3人でお茶しに行こうよ。」 と、言い
Aが 「でも・・・」 と、渋ったが、Bが強引に引っ張り
私は何の気なしにボケーッと着いて行き
結局3人で何事もなかったかのように茶を飲んで、普通に喋った。

この私の行為は、どっちつかずの卑怯者なんじゃないかと
途中で気付き、モヤモヤしたものが胸に残ったが
悪い事にその日以降、Bは再び学校には来なくなったらしく
Aは私にくっついて回るようになった。

相変わらずキャンキャンうるさくて、イライラさせられ
とうとう 「おめえ、うるせえんだよ!」 と、ブチ切れた。

すると、Aは悪びれず 「ごっめーん。 でも、いいじゃん。」
と、あっさり笑って済ませた。
その時に初めて私はAを理解できた。
なるほど、こいつは根はサッパリしたヤツなんだな、と。

それ以来、Aを罵倒しながらも、一緒にいるのが苦痛じゃなくなり
そんな私たちを、例のグループは遠巻きに怪訝な表情で見ていたが
その子たちとも私はいつも通りに接し、何の質問もされなかった。

そうこうしてる内に、徐々にグループとAは口を利き始めたようで
Aとグループが一緒にいるところを時々見るようになったが
グループと仲直りした後でも、何故かAは私につきまとっていた。

しかし、私には罪悪感があった。
Aの悪口を最初に言ったのは
仲間外れにされるきっかけを作ったのは、私である。

このまま、なかった事にしたいが、自己嫌悪がたまらんし
他からAの耳に入る可能性もあり
そしたら黙っていた事で、私はもっと卑怯者に堕ちてしまう。

私がそういう事をしたヤツだとわかったら
それで絶交をされるかも知れんから、すげえ恐いけど
Aには、知った上でどうするかを決める権利があると、腹をくくった。

「おめえ、一時期無視されてたじゃん。
 あれ、実は最初に悪口を言ったのは私。」 と言うと
Aは案の定、大騒ぎをした。
「ええええええええええ? 何でーーーーーっ?」

「おめえ、すげえうるせえじゃん、大嫌いだったんだ。」
と、ストレートに言うと、Aは悲しそうに
「今は・・・?」 と、聞いてきた。

「今は好き。 中身はサバサバしてるってわかったし。」 と、答えたら
「じゃ、別にいい。」 と、Aは言い、この話はこれで終わった。

えええ? と、拍子抜けだったが
Aは言わないだけで、私の何倍もあれこれ悩んだのだろう。

散々罵られた方が、かえってこっちはスッキリするんだが
被害者であるAが終わらせた以上
私のこのモヤモヤは、罰だと思って持ち続けるしかない、と諦めた。
この話は二度と出なかった。

この経験は、私にとって不可解な事だらけであった。
言い分としては 「まさか、あんな事になるとは」 だ。

だが、今になって思い返すと
もしかしてイジメというのは、何人が関わろうと
煽動してるのは、いつもひとりふたりではないのか?

常々、自分の周囲で不可解なトラブルが続発すると不思議だったが
もしかして私は無意識的煽動者ではないのか?

上の事例では、口火を切るだけ切って、あとは放置。
そういうつもりじゃなかった、という言い分で
「まさかあんな事になるとは」 だ。

これって、キャンプのたき火の不始末で山林大火災!!
と、何ら変わらん大迷惑だと思う。
どういう結果になるかを考えない言動は、それだけで重罪である。
“悪気がない” など、何の免罪符にもならんよ。
チャッカマンかい! っての。

これ以来、自分が関わった事を他人事にするのはやめた。
しょせん考えの足りないドバカなので
思った事をすぐ口に出してしまうのを直せる自信がない。
自分の気に入らない事に、文句をガンガン言うのも多分やめられない。

だったら、せめて悪を自覚して言おう。
とりあえず、自分の言動は、いくら自分では正しいと思えても
常に疑問を持っておこう、“万が一” を恐れよう。
で、間違ってるとわかったら、素直に詫びまくろう、と。

何か反省の方向性が違うような気もするが
何故かAとは、今でも付き合いが続いている。
いまだにうるせえ。

関連記事: 06.11.14 イジメ経験談?      
        06.11.20 イジメたヤツへ

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