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自分語り?哲学? Archive

美と愛

美しいものは、ついつい許してしまう。
 
いかにもエロオヤジの言うような言葉だけど
こんな感情を実際に味わったのは、アフガンハウンドとの生活でだ。
 
噛み犬アフガンハウンドとの暮らしは、とても辛いもので
毎日毎日、早く死ねだの行方不明になってほしいだの
本気でそう願っていたのだけど
アフガン・・・、美しいんだ!
 
 
 
画像の上部がおかしいのは、何かファイルの破損?
もう、私の画像、こんなんばっかりだよ・・・。
 
 
私は獣の王として、きちんと君臨したので
最後までアフガンハウンドと馴れ合う事はなかったけど
本当はアフガンにデレデレしたかった。
あんなにひどい事ばかりされたのに、である。
 
私は性格上、実用性、合理性を重要視する。
美しいものであっても、そのどちらかを兼ね備えていないと
評価に値しないものだと思っていたので
この気持ちは、自分でも意外だった。
 
美は愛を生み出すのかも知れない。
世の人々が、美しいものに魅了される気持ちが少しわかった。
 
 
私の友人に、とても美人な女性がいる。
大人しめだけど、性格も良い。
ヘアメイクやファッションにも敏感で、おしゃれをしている。
だけど一緒にいて、その人が美人だという事を忘れるのだ。
 
何だか、凄くもったいない気がするんだけど
問題も原因もわからないので、ずっとモヤモヤしていた。
けど、今思い返してみると答が出せる。
 
 
まだ若い時にその子に、嬉しそうに言われた。
「ねえ、彼氏に 『何でこんなに可愛いんだ』 とか言われない?」
その時に、私は ムッ & ??? を同時に思った。
 
え? この子に 『可愛い』 ?
この子は可愛いとかそんなレベルじゃなく、“美人” だろ!
この子の彼氏、何なの? その評価!!!
これが 「ムッ」。
 
え? 彼氏って、そういう事普通に言わない?
何でそんな事が嬉しいの?
これが、「???」。
 
 
で、その時は友人の彼氏の文句など言えないので
「うん、そうだね。」 で済ませたんだけど
今になって考えてみると、その子
自分が美人だという自覚がなかったんじゃないか、と思うんだ。
 
よくわからんけど、迫力がなかったんだよ。
私は美人よ! っていう。
だから、美人なのに美人に見えなかったんだと思う。
 
 
あんなに美人なら、自分で真っ先に気付いて誇って良いはずなのに
性格が良いのが災いしたのか、大人しいのかいけなかったのか・・・。
おまけに、ちゃんとした美人なので
周囲もわざわざその事実を、本人に伝えなかったんだと思う。
私もその子に言った記憶がないんだ、おめえ美人だよ、って。
 
これは嫌がらせやヒガミじゃなく
友人の長所をあえて褒めるのは、照れくさい、っちゅうか
友人 = 身内も同然、で身内を褒めるのは下品、っちゅうか
そういう硬派なヤツが多かったんだよな、私の仲間は。
 
お陰で私も20代後半になって、やっと自分がナイスバディだと気付いたし
彼女も自覚してれば良いけど、私が言えば良かった、と後悔してるよ。
 
自分が美しいんだ、と気付くのは、自分を愛していないと出来ない。
悩みもない日々を過ごしていると
自己愛とかいらないから、自分の姿にも気付かない。
それはそれで幸せなんだが、女性の作りには賞味期限があるしな。
 
 
この2つの事例で、美と愛の関連性がわかる。
美は愛を生み、愛は美を生む。
 
美しいから愛してしまうし、愛してるから美しく見える。
理屈とかじゃなく、無条件にそう思うプログラムが生物にはあるんだろう。
 
 
さて、じゃあブサイクは愛に無縁か?
ほっほっほ、それがまた不思議なもので
度を越したブサイクは、これまた愛を引っ張り寄せる。
 
うちのゴールデン・レトリーバー、見事なブサイクだったが
 
 
 
もう、ここまでくると、むっちゃ可愛いんだよー。
同情票かも知れんが、溢れ出す愛には
属性などどうでも良いと思わせる力がある。
 
美には黄金比があり、絶対的なものだと思うので
このゴールデンを美しいなど、言うのは間違っている。
だけどここにも、美の法則が存在しているような気がする。
 
どうやら美は、ゼロか100かで愛を発動させるものらしい。
 
 
今まで私は、美と愛を別個に考えていたんだ。
“可愛いと思うのは親だけ” なのに、それは禁句なせいで
ゴロゴロいる世の親バカから、すんげえ迷惑をこうむっていた。
 
なので自分だけは客観性を持っていよう、と誓った。
愛しているけど可愛くない。
可愛くなくても愛してる。
 
だから私を 「可愛い」「美しい」 という歴代彼氏を
“男は愛情で目が腐る” と鼻で笑っていた。
 
しかし、これは間違っていた。
私は、愛を生みだしていなかったのである。
 
 
ごめんね、歴代彼氏たち。
でも私へのその愛は、美ゼロ発動だよね?
 
あいつらーーー、もし会う機会があったら無礼討ちにしてくれるわ!!!

外見コンプレックス

下の中だと自己判断しているツラ構えの私だが
外見のコンプレックスはない。
 
ナイスバディなので、体の方は不満こそあれ
深刻な悩みはないのは当然だが
まごう事なき超ド級ブサイクなのに
何故、顔にコンプレックスがないのか?
 
それは私の、今は亡き母親が理由である。
 
 
私のかあちゃんは、若い頃に難病にかかって
腰が曲がり、背骨が岩のようにボッコリと飛び出していた。
和服を着ていたら帯で隠れるのだが、洋服だとはっきりわかるほど。
 
そして病気前は160cmあった身長も
病気後は折れ曲がった腰のせいで、・・・なんぼだろう?
並ぶと、私 (165cm) の肘の高さぐらいだったから
もしかすると1mぐらいしかなかったかも知れない。
 
 
そんでその病気のせいで、流産死産を繰り返し
年老いてから、やっと私を授かった。
(ほんと申し訳ないと思う。
 そんな待ち望んだ子がこんな娘で。
 でも親のDNAもかなり傷んでたはずだから、お互い様で良いよな?)
 
年老いての子と、曲がった腰で
一緒にいると、知らない人が 「おばあさま?」 と訊くのだ。
 
 
思春期ぐらいの自意識過剰自分被害者の年頃の時など
こういう親を 恥ずかしい、と思ってもしょうがない。
だけど私は、それを思った事は一度もなかった。
 
それは私が上質なガキだったからではなく
そういう神経すらない、ポヤンバカガキだったのと
かあちゃんの態度のお陰である。
 
 
かあちゃんは、“おばあさん”“おばあちゃん” と
呼ばれた事は一度もなかった。
“おばあさま” なのだ。
 
そしてそう呼ばれた時は、ほほほ と笑って流し
訊かれた時は、「いえ、遅くにできた子ですのよ。」
と、堂々と答えていた。
「金持ちケンカせずよ」 と、私には言っていた。
 
と言うのも、かあちゃんの実家は
ものすごい没落もしたのだが、昔ものすごい富豪で
かあちゃんの若い頃は、専属使用人が何人もいたほどらしい。
 
そういう生まれ育ちをして
「贅沢なんて、やりつくしたわ。」 サラッとそう言い
貧乏になろうと、外見が老婆になろうと
いつまでもお姫様の心を持つかあちゃんは、多分私の誇りだったのだろう。
 
今までこういう事を考えた事もないので
当時の気持ちは推理でしかないが。
 
 
一度かあちゃんに訊いた事がある。
 
「そんな体で人前に出て恥ずかしくないの?」
 
イヤミでも悪口でもなく、純粋な疑問として
こんなひどい質問をする 成 人 し た 最低なバカ娘に
かあちゃんは、ほほほ と笑い、ナチュラルに答えてくれた。
 
「世の中には色んな人がいるから。」
 
この答があるから、この母親だったから
私は自分の難のある顔を、可愛いとすら思えるのである。
 
 
“五体満足” とか言うのは、ほんと卑怯で
そんな説教など、聞きたくもねえ。
大多数の平均な一市民の、ごく一般的な悩みを
そんなおおごとと同列にせんでくれ、という性格なんだ、私は。
 
だから、かあちゃんが難病だったから、と答える私は卑怯者。
だけどこれも、かあちゃんが教えてくれた事だ。
有意義に利用せんと、かあちゃん浮かばれんぜ。
 
んで、親切心で皆にも伝えてるわけだ。
自分ら、1個のデメリットもなしに、“特殊な経験” の話を聞けるんだぞ。
ありがたい、と素直に喜んどけば良い。
 
 
周囲にこういう人がいないと、わからないだろうけど
持って生まれたものや、自分ではどうしようもない事は
悩む必要はない、と私が断言しちゃるよ。
 
ただし努力はせえ。
人間、外見なんだから。
外見だけど、“つくり” じゃなく “演出”。
 
ファッション、ヘア、メイク、立ち居振る舞い
そして一番大事なのが、気合いだ。
 
私なんかさ、下の中だというのに
有無を言わせぬ何様オーラで
たまーに 「美しい」 とまで言われるんだぜ。
5年に1回ぐらい。
 
 
これを言うと、「そこまでブスじゃないんじゃ?」
「本当は美人なんじゃ?」 と思われるけど
アホ! よく考えろ。
 
下じゃなく、中クラスであったら
私ならものすごーーーく、自画自賛しとるはずだろ?
それをせずに、ブサイクと認めてるのは本当にブサイクだからで
しかもそれを恥じていないからなんだ。
 
 
顔のつくりに悩まされているヤツ、
そこは、気にする必要は1個もない。
問題はおめえの、それを恥じる心なんだよ。
 
勘違いも痛々しいけど、人に迷惑をかけなければ
そんぐらい強気に思ってるぐらいが、ちょうど良いぞ。
 
自分の持ち物を呪うな、祝え。
 
 
関連記事: 見せるか 隠すか 11.7.6 

陰口

人に陰で悪口を言われていた時、どうするか?
私の答は、放置。
だって陰でしか言ってない時点で、相手は負けてるわけじゃん。
 
私も陰口をバシバシ叩く事があるけどさ
でもそれは、自分が絶対に敵わない事がわかるから
陰でしか言えない場合なんだよな。
 
ここで専属サポート係の悪口とか、コソコソ書いているけど
バレたらほんと恐怖なんで、かなりのスリル感を味わっているぞ。
 
 
人間関係でトラブルが起きた時
昔の私なら友人に、どう思う?どう思う? と訊いていた。
だけど最近は、それもやめた。
 
今までの経験上、何かあった場合
絶対!!!に、私の方にも非があるからだ。
 
その私への “非” の糾弾も、正論じゃない事もある。
言い掛かりや逆恨みだってある。
存在するだけで、誰かを傷付けてしまう場合もあるのだ。
それはもう、理屈ではないんだと思う。
 
人間関係は大事にしているつもりだが
私の手に余るような事にまで、ウカツに手を出すと
余計にコトがおおごとになる場合が多いので
触らぬ神に祟りなし、じゃないけれど
あー、私また何かしでかしちゃったかな、と
上辺だけの反省をして、普通にしておくだけなのだ。
(反省が上辺だけなのは、理由がわからんのだからしょうがねえだろ。)
 
これじゃ、何の解決にもならんのだが
経験上、おおごとにするよりは、まだマシなんだよ。
 
 
面と向かって言ってくれればこっちも対処するのに、と思うんだが
“嫌い” の刃は、きっと諸刃なんだろう。
相手に思う悪口は、自分の弱点そのものを表わしているようだ。
言わば、相手に弱みを晒してしまうわけで
そんな事をしたくないから、陰で言ってしまうんだと思う。
 
だから陰口は、気にする必要もない。
それが “評価” じゃない限りはな。
 
仕事がザツ、とか、愛想が悪い、等の欠点指摘は
明確な理由があるんだから、きっちり反省すべき。
何でもかんでも悪口だとひとくくりにするのは、単なる被害者ヅラである。
陰で言われている言葉は玉石混合で、たまにハッとさせられたりもするから
聞き捨ててばかりじゃダメだと思うんだ。
 
 
ところで私はよく、さっぱりしている、とか言われるが
これはとんでもない誤解である。
 
・ 人の話をよく聞いていない
・ すぐ忘れる
・ 鈍くて瞬時に反応できない
・ 妙なプラス思考を発揮する事がある
・ 感情を邪魔にし、機械的に割り切る
 
誤解の原因は、これだと思う。
 
特に最近は、鈍さに拍車が掛かっている上に
気力体力を使うのは健康にもったいない、という老化ぶりで
色んな事を右から左に流しているのである。
 
草木のような淡白さになっとるんだが
粘着質なババアほど薄気味悪いものもないんで
こんなんでもういいかな、と、これまたサラリと流している。
 
 
周囲にそう害を与えていないはずなんだが
それでも嫌うヤツは、激しく嫌ってくれる。
そんなんを聞くと逆に、元気があって良いのお、と羨ましくなる。
人間、感情を動かしてなんぼだと思うからだ。
 
悪口を言うのも言われるのも、人間らしい営みのひとつだから
あまりサラサラ受け流すのは、良くはない気がするんだ。
反応の薄い態度ばかり取っていると
「相手にされてない」 と思われて、嫌われる一方だしな。
 
何より、陰口に悩む、という人間らしい反応も出来んなど
生きてきた甲斐がないように思えてならない。
よって私はこれからの人間関係では、悩む事を頑張ろうと思っている。
 
 
えれえ、“悪口を言うヤツとは世界が違う” と言いたげな内容だが
私の悪口を言うヤツなど、実際に私と世界が違うんだよ!
 
悪口叩き野郎など、何ひとつ思いやるつもりはないね。
私は私のため、私と付き合ってくれる人々のために
心を動かす努力をするだけなのさ。
決して私の悪口を言うヤツのためじゃねえんだよ。
そこ、勘違いせんようにな。
 
 
「汝の敵を愛せよ」 とか言い出さんところは
私もまだまだ現役だな、と嬉しく感じる。

無人島に持っていくもの

ひとつだけ、とか条件を付けられて、この質問をされるが
「何でも出来て丈夫で長生きする下僕」 という答は
“もの” じゃないから、却下だそうだ。
この答は、ほんと人間性を見られるから、良い子の皆はしないように。
 
災害に備えて、水だ携帯食料だ救急キットだ、と備蓄をするくせに
何でこういう質問をするかなー、と思わんでもないが
この問いには、結構考えさせられる。
と言うか、かなり達観しないと答が出せない。
 
 
“もの” を1個だけ・・・。
 
ランプからマッチョおやじが出てきての、3つの願いでも
「何度でも願いを叶えられるようにして」 は、ダメだそうで
そのルールは誰が決めたんだよ! と、怒り心頭だが
そんなルールは、叶えるヤツが決めて良いに決まっとる。
けど、欲を刺激されると、ゴネ始めるのが人情である。
 
ちなみに私の3つ願いは
「心身ともの健康」「不自由しない金」「不自由しない人間関係」
 
 
年を取るとなあ、3つの願いとかのメルヘンなんか言っとる場合じゃなく
現実面で、そこらへんの欲が厳選されていくんだよな。
 
こう、両手にいっぱい物を抱えているのに
更にどんどん荷物が到着してくる。
 
若い頃は体力と勢いで欲張って、それらを一気にかつぐ事が出来たけれど
老いてくると、腰は痛いし足はむくむし息切れはするし
どれかを受け取るには、どれかを諦める、どころじゃなく
更に手持ちのものまで捨てなきゃいけない、って状態になるんだ。
何ちゅうか、倍捨て? 結果、手荷物目減り?
 
これをしないと、押し潰されて身動きが取れなくなり
精神的に持たなくなると思う。
 
 
だからこの問いは、年寄りほど即答できる気がする。
捨てさせられる事に慣れているから。
 
私はまだまだ未熟なのか、えれえ考え込んだよ。
現実生活に絶対に必要なもので、消耗品じゃないやつ。
どう考えても、刃物セット (注: 砥石付き) なんだ。
 
“切る” って行為だけは、自然じゃ無理っぽくねえ?
石を削って槍にする、とかよく言うけど
それ、ほんとーーーーーに出来るかあ?
ここらへんの自信がないから、私はとにかく刃物でいいよ。
 
 
でも、無人島でひとりきりで生きなきゃならん
なんて事になったら、正直生きる気がなくなると思う。
 
てかさ、この問いって大昔からあるよな。
アラジンのランプとかが元凶だと思うんだが
何のためにこういう質問があるのか、不思議だと思わんか?
 
もしかして、生きる意欲を試している、とか
隠された深い意図があるのかも知れん。
 
 
こんな禅問答みたいな事を、何日も真剣に考えてるのは
切羽詰ってると思ってた自分の生活が
実はえれえ余裕があるんじゃないか? と思ってみたりもする。
 
貧乏ヒマなし、と言うけれど、現代の貧乏はヒマなんかも。
だとしたら、日本ってやっぱ、やっただけ返ってくる良い社会なんだな。

ババア宣言

読んでくれている人から不評の、自分をババア呼ばわり。
これについて、とりあえずの結論が出た。
 
私はババアの道を歩みたい。
 
そもそも、最初にババアと自称し始めたのは
自分の年齢をすぐ忘れるからである。
 
これ、服を選ぶ時とか、ものすごく支障が出るんだよ。
ついロックテイストの服を手に取ったりとかするんだ。
だから、現在自分が何歳か瞬時に思い浮かばないけど
とにかくババアなんだから、と自分を戒めたのが最初だった。
 
 
戒める必要があるのか? と、問われると
私に関しては、「ある!」 と即答する。
 
親もない、知恵もない、恥もない私は
放置しとくと、どこまでも自由なんだ。
自分を縛るものは、自分しかいない。
人間、カセがないと堕落すると思う。
 
何を堕落かと言うと、それまた禅問答のようになるんだが
私的には、“社会の中で違和感がある存在” の事を言うんだ。
 
 
私のこの感覚は、幼い頃から 「変わっている」 と言われていて
その意味が、別に悪い事ではないんだけど・・・
という非難の言葉だと知っていたので
“普通” でいたい、と強く願うようになったんだと分析している。
 
更にその延長で、枠に収まる、型にはまる、等にものすごく憧れる。
“社会の歯車” に、完璧な正義を感じるのである。
 
とんだ変態のような事を言っとる気もせんでもないが
自分の中では、秩序の美学みたいなものがあって
それを目指しているのである。
まだまだ到達できていないのは、このブログを読んで丸わかりだろうが。
 
 
そして、ここ数年、自分の中でボンヤリと思っていたのが
ババアで何が悪いんだろう? という疑問。
 
見た目年齢 の記事で書いたんだが、それではっきりわかった。
私は自分を見失っていた。
去年は大きく体調を崩して、ちょいウツ気味にもなり
やたら弱気になっていたんだよな。
 
これは思春期のグレのようなもんで、まだまだ揺れ動くとは思うけど
ここにきて皆から助言を貰い、グダグダ考えて答が出た。
 
私はインテリ上品ババアになりたいんだ!
 
これは外見上であって、中身はどうしようもないドアホウなんだが
そんなん、付き合わないとバレないじゃん。
パッと見だけでも、お固くて厳しい女教師風なのになりたいんだ。
 
MじゃなくてS、菩薩じゃなくて鬼
フレアスカートじゃなくタイトスカート、肩出しじゃなく詰め襟
ドレスじゃなく軍服、湯じゃなく水、玉砂利じゃなく岩石
 
何を言うとんのかわからんだろうが、心配すな。
私も書いててどんどん混乱しとるから。
 
 
とにかく私は、ババアと自称したい。
もちろん他の人の事を同列視するつもりはない。
基準なんて個人差がものすごくあるし。
 
最初は戒めのみのつもりだったけど
途中から何だかそれがどんどん楽しくなってきてな。
どうも脳内で、自分の老化を乗り切るための妙な正当化変換をしたようだ。

何か、いかにも地獄に堕ちそうな思考の移り変わりで
自分の死後の世界に恐怖を感じるんだが
「自分で自分をババアと笑える心の広い わ・た・く・し (はぁと)
 他人に言われたら、そりゃあ烈火のごとく怒るけどね ふっふっふ」
と、他人が実に対応に困る、ハタ迷惑な自己満足をしたいんだ。
 
 
そんでビジュアルの目指すところも、何となくわかったから
このブログではその理想像を基準に、ババアで何が悪い、と恫喝しつつ
ババアに何が良いか悪いかを、自己判断で書くので
他の人にはこれは当てはまらないのを前提として、読んでもらいたい。
 
肉食猛獣系を目指すも良し、おっとり良家夫人を目指すも良し
そういう自分のコンセプトがある場合、それを伝えて話してくれれば
より話が発展しやすくなると思う。
 
 
しかし、ここで障害になるのが、嗜好なんだよな。
なりたいものと、好きなものが違うんだ。
お固い上品とロック系、かみ合わないだろ?
 
何でこう趣味と違う理想を持つんだか、よくわからんのだが
この趣味のせいで、まだまだ失敗を繰り返しそうな気がする。
ロングブーツ、失敗だったしなあ・・・。
 
まあ、その試行錯誤も経過のひとつなんで
迷いまくっとるなあ、とか笑いつつ観察してほしい。
結構、滑稽な様相を披露しまくっていくような気がするんでさ。

ひとり

人はひとりぼっちである
人に自分の痛みなどわからない
 
えらく殺伐とした意見に思えるだろうが
これは私が人生で学んだものの中でも、最重要の位置にくる感覚である。
 
 
人には自分の苦しみなどわからない。
自分にも人の苦悩はわからない。
 
「わかる」 などと言うのは、思いあがりである。
生まれた境遇、育った環境、性格、細胞、全部違うのだから
たとえ同じ経験をしても、その人その人によって
感じ方がまったく変わって当然である。
 
人と人とは、完全にはわかり合えないものなのだ。
これを確実に自覚した時には、大きな絶望感が襲ってきたけど
同時に心が軽くなるのを感じた。
 
いつも “根拠のない” と自称している私の不必要な自信の源は
自分がいつまでもどこまでもひとりである事を
知っている事からくるのかも知れない。
 
 
そこで、“ひとり” である事の素晴らしさを力説しよう。
 
もし、人と痛みを共有できるとしたら、こんな辛い話はない。
人が風邪の時に、自分にもそれが移るんだぞ。
ちょ、おめえは酔っくろうて道端で寝て自業自得だろうけど
何で私までそれで苦しまにゃならんのだ?
というような事例が続発したら、たまったもんじゃないだろ。
 
その具体例が、小学校の時に習った理不尽な連帯責任。
たったひとりのドバカのせいで、何で私まで?
と、社会主義もどきの妙な教育を呪った経験はないか?
 
まあ、その “たったひとりのドバカ” の位置には
大抵私が鎮座していたんで、「おめえが言うな!」 だが
被害に遭った人々は、私よりもその制度を恨んでいたはずだ。
 
これは学校教育の最大の間違いだと思う。
人はひとりであるゆえに、自業自得を体感できる。
罪をきっちり清算できるわけだ。
その無常を容赦なく教え込まないから
社会のせいにして、無差別殺人を起こすような輩が出るのである。
 
 
こういう感覚だから、私は常に孤独を感じている。
どんなに大勢に囲まれていても、拭えない虚しさがある。
心の中には常に、荒地にひとり立つ自分がいる。
 
だけどこんな私でも、相手の事を考えようとする。
わかり合えないとわかっているけど、“想い” がムダだとは思わない。
普段は結果重視の合理主義だが、人との付き合いに関してだけは
わかろうとする過程が大切だと思っている。
 
真にはわからないかも知れないけど
何とか少しでも相手の気持ちに近付きたい
人はそう想い合って、支え合って生きていくのだ。
 
孤独癖のある私でも、人と付き合うのが好きなのは
わからないからこそ逆に価値があるもの、だからなのだろう。
 
 
そしてその葛藤の最中に生まれてくるのが、“共感” である。
これを得たら、相手と自分が一体化したような安心感がある。
 
理解出来ずとも、共感できる場合もある。
理解は愛に関係ないが、共感もまた理解とは別だと思う。
これを出来るのが、人間の素晴らしさのような気がする。
 
 
だから、怒られるのも同情されるのも嬉しい。
どっちも相手が自分の事を気にしている証拠だからだ。
怒られる喜びについては、何度も書いているので
今回は同情される喜びについて書く。
 
同情は見下している気持ちだと解釈して、嫌う人もいるが
“可哀想” という気持ちがなかったら、世界はどうなるんだ?
 
確かに同情してくれる人の心理は、様々で複雑なんだろうけど
いずれにしても、その人は “同情” という形式で
自分の事を想ってくれている事は間違いないんじゃないか?
 
たとえ相手の脳内で、密かに見下しされていたとしても
可哀想だというのも確かに思っているであろう相手の気持ち、
そしてそう思われる事によって、もたらされる親切の方が
はるかに重要だと思わないか?
 
このように、怒られるのも同情されるのも
自分が “ひとり” だとわかっているからこそ
相手の思惑にとらわれる必要もなく
ただ素直に授かる恩恵だけを喜んでいられるのだ。
 
 
長々と書いたけど、“ひとり” 自覚の最大の利点は
人に期待をしなくなる事なのである。
 
それは投げやりな孤立感ではなく、自己責任みたいなものの芽生えで
とりあえず自分でどうにかしよう、と人に甘えなくなるのだ。
そうしてると、人が不思議と助けてくれるようになる。
 
いや、人に期待をしないでいると
人の厚意が、逆にはっきりと見えるようになるのかも知れない。
だから余計に人の助けをありがたく感じるようになるのだ。
私の場合は、まだまだ甘えている性格なんだけど
初手から人頼りしまくってた時より、良い循環をしている気がする。
 
 
人は皆ひとりである。
これを実感すると、自分が世界でたったひとつの存在だとわかる。
そこに価値を感じようと感じまいと、自分は無二の存在なのだ。
そしてまた、他人も同様にたったひとりの人間なのだ。
 
そう気付いたら、どっちも尊重せずにはいられない。
他人も自分の事も、理解する事が大事なのではない。
そのたったひとつのものに、愛を感じられるか否だ。
 
 
余談だが、ヴェルタースオリジナルキャンディ、あれ、美味いなあ。
最近、あのロコツな甘さにハマっているんだ。
 
・・・最後の最後に、熱弁全部を台無しにしたか?

線引き

どっかの政治家が、法律で決まってるわけじゃないでしょ?
などと、ほざいていたが、ほんと苛立たしい。

法律は社会生活上、絶対的存在である。
しかし、この法律で決められていないとこに、人間性が出るのだ。

法に定められていない日常の何でもない事、それをどう考えるか
それがモラル、倫理、道徳なのである。

これは、絶対に正しい、という答がなく各々の裁量で決められる。
人は皆、生きていく上で自分なりのルールを持つ。
ここまでは良いけどこうなったらダメ、と、どっかで線引きをしないと
人生がグチャグチャになってしまう。

この自分ルールは重大な事から些少な事まで
身の回りのあらゆる事に適用される。
この線引きがあいまいな人が、“だらしない” のだ。

ものすごく小さいたとえをしよう。
部屋の中に、普段は使わないけど寒い時にはおるひざ掛けを置くとする。
そのひざ掛けを、畳むかグチャグチャに放置するか
ここで既にその人の線引きの感覚が問われる。

グチャグチャに投げやっていて気にならない人は
もう1枚グチャグチャの布があっても気にならないはず。
そうやって、どんどん部屋が散らかっていくのである。

大げさな、と思われるかも知れないが
通りのラクガキ1個を放置していると
しまいにゃ犯罪多発に繋がる、という話もある。

ここで 「大げさな」 と思う人は
線引きがあいまいになっていないか、自問自答すべきである。

生活習慣だけでなく、人間関係でも線引きは重要である。
人と人の間に線引きなど、冷たいように聞こえるかも知れないが
悪い意味ではなく、自分をわきまえる、という事なのだ。

ここまでは甘えても良いけど、こっから先は図々しいな、とか
押し付けになるな、とか、相手と自分の感覚や立場の違いを考慮して
お互いにとって負担にならないよう、付き合う。

こう書くと、やたら難しい事に思えるが
ほとんどの人が、大なり小なりこういう事をやってるはず。
社会では当たり前の礼儀だから、見過ごされているだけであろう。

現に線引きがあいまいな人は、“距離なし” と嫌われる。
自分も他人も一緒くたにされると、迷惑するのは大抵が相手側なのである。
またこういうヤツに限って、迷惑顔をされると
「冷たい」「情がない」 など、相手を一方的に責めて
その被害者ヅラには、腹立たしさが倍増だ。

このように、線引きは人生のすべての部分で必要不可欠である。
どう線引きをするか、の部分が似ていると、倫理観が同じなわけだ。

価値観の違いは、付き合いにはそう支障はないけど
倫理観の面が違うと、ダイレクトに色んな状況に影響し
かなりの困難が生じるので、付き合う上で注意した方が良いと思う。

「法律で決まってるのか」 この言葉を使うヤツは
大抵、薄ぼんやりと自分の非を認めている。
他に返す言葉がないから、こんな妙な事を言い出すので
かなり追い詰められているわけだ。

もし本気でこの言葉を言っているのなら
そいつは線引きのないヤツで、かなり危ない。

線引きのあいまいな人、逆に極端な人は、モラルに欠けるので
関わらない方が、無難な人生を送れる。

私のように、自分を律する線引きで手一杯で
外では全部あとよろー、で他人任せなヤツも
良い迷惑なので、論外なんだがな。

線引き、とても大事だと思う。

不公平

子供がジュースをコップに注ぎ分ける時に
ミクロン単位で同量にこだわるガキがいるだろ。
あれは小さな不公平感の表れじゃないかと思う。

公平感じゃなく、不公平感。
何故なら、ひとりっこにこういう事をする子は少ないからだ。
不平等の実感がないと、“公平” には気が回らないものである。

まあ、こんなんは大人になっていくにつれて消え去り
成長の過程での経験として活かされるが
たまに、この不公平感を大きく育ててしまうヤツがいる。
これがまた、ドグラに多いのだ。

こういうヤツらは、ギブ & テイク や、権利と義務
あれをしたからこうなる、という物事の流れが読めていない。
他人がちゃんとやってて頑張ったから受けられた恩恵を
「ずるい」「不公平」 と妬みひがむ。
何もせずに良い思いだけをするのが、幸せだと思っているのだ。
その感覚こそが不公平なのに。

私の人生の結論は、“プラスマイナスゼロ”。
プラスを得るには、マイナスも受け入れなければならず
空から降ってくる幸運は、滅多にない奇跡扱いしている。
ラッキーな目に遭えば、逆にその反動の祟りが恐い。

だがこれは、私ひとりだけの世界の中での話である。
社会の中のひとりとして見ると
私の人生はマイナス層に分類されるであろう。
もっと幸せな人は大勢いる。

だが、それで幸せな人をうらやんだりはしない。
今の境遇は全部、自分の無意識の選択の結果なのだ。
だけどきっと何度やり直しても、今と同じ結果になったであろう。
あの頃の私は、やっぱり “あの頃の私” でしかなく
自分で変えられる人生があるとしたら、それは未来にしかない。

今、“格差社会” という単語が飛びかい
えらく不平等であるかのような話になっているが
そもそも世の中は、はなから平等ではない。

色んな要素で人間は分類され、区別差別をされている。
人の命も等価ではない。
高い命と安い命とある。
平等だった世界が、歴史に存在しないのだ。

色んな平等思想が蔓延しているが、それらの解決は出来ないであろう。
何故ならば、人はひとりひとり違うからである。
すべて同じじゃないと、必ず不公平感が出てくる。
外見では見分けの付かん動物ですら、個体差というものがあるので
人間など、もはや個性自体が平等の敵になってしまう。

しかし逆に言えば、不平等が世界を発展させている。
不自由だと思えば、自由への道を探り
面倒な事は、いかに楽に出来るようになるかを考える。
マイナスがないと、意識は変わらないのである。
だから世の中、不公平で良いじゃないか、と思う。

なのに今このように、“格差” とか不公平感をあおる言葉が流行るのは
その不満で社会をどうしたいのだろうか、と一連の不穏な流れを感じる。
諸悪の根源は、義務や責任のない権利を求める人々じゃないかと思う。
自分が得をしたいだけ、という欲望のみの不公平感は
人間を最も醜くする感情だと思う。

私の考える、真の平等に必要な仕組みはたったひとつ。
“自業自得絶対発動システム” を人の心に搭載する事だ。

良い出来事も悪い出来事も、すべて自分がもたらしている
この世は結構、そういうルールのような気がするぞ。
だから今の時代は、やはり大体のところにおいて平等なんだと思う。

努力

オリンピックは参加する事に意義があるそうだが
この言葉は選手への励ましの言葉ではない。
参加する事に意義を見い出されるのは、選手個人ではなく国だからだ。

こんな、政治も慰めもゴッチャのキレイ事と違って
個人への励ましの言葉を、私は持っている。

努力は、する事に意義がある。

努力、私の大っ嫌いなこの単語、
しろと言われたら、自分が如何に既にやってるか
自己弁護を必死でまくしたてたくなるほど、言われたくないこの単語!

しかし私はこの単語の真の価値を知っている。
私の嫌悪する、避けて通りたい関わりたくない聞きたくもない
このうっとうしい単語は、人生において最も尊く美しい作業なのだ。

努力は、何かを成し遂げようとする時にするものではない。
何かを成し遂げようという、心そのものなのだ。

こうしたいああなりたい、という向上心
それをしようと決心した勇気、それに向かって進む持続性
努力には、人間の立派な部分がてんこ盛りである。

声を大にして言いたいのは、努力には結果を求めるな、という事だ。
努力して思い通りの結果が出れば、それは目出度いが
出来なくても、努力というちゃんと意味のある事をやっているんだから
結果よりも、その過程の方が大事だと思うんだ。

逆に言えば、結果を重視するのなら努力は関係ない。
努力しようがいい加減にしようが、結果が出れば問題ないはず。

しかし世の人々は、“努力をして結果を出す” という高望みをする。
ヘラヘラ遊び半分で見事な仕事をされるのは、決して歓迎されない。
汗して苦悩して涙にむせびながら、出来上がったものなら
それがイマイチでも、ありがたがられる。

例えると、ヘタすると押入れにもホイホイ生えそうなシメジより
豚や犬がゴフゴフ探したトリュフの方が高価である。
諸々の諸経費を入れても、シメジの方が美味いのに、である。
(キノコの種類や栽培法に無知な安物食いの言う事なので
 サラリと流してくれれば、ありがたい。)

私は努力と結果をはっきり分けて考えている。
私が 「努力せえ」 と言う時は、“姿勢を改めろ” の意であり
結果など、どうでも良いのである。

と言うか、達成を困難にしている原因が、態度にある場合も多いので
それを改めるよう心掛けていれば、結果はその内に付いてくる。
こういう状況の時は、かなりの長期戦になるので
結果など求めてたらやっとられんだろう。

結果を求めるのであれば、「努力などせんでも良いから結果を出せ」
と言うので、ものすごくわかりやすいと思うのだが
それでも “努力” を絡めてくるヤツもいて
それを認めないと鬼のように思われるんで、ほんとやりにくい。

うーん・・・、客観的に書いているつもりなのに
何やら自己弁護をつづっているように思えるのは
自分がいかにダメかを自覚している証拠なんだろうか?

お金の作用

世の中、90%の事はお金で解決できると思っている。
だがそれは、ケタ外れの大富豪の場合である。

私の人生は、お金に不自由しない時期と、貧乏期の繰り返しである。
現在は、私の歴史上、2番目に貧乏だが
多分、浩史くん (三木谷) クラスが迎えに来ない限り
2度と浮上する事はない、と予想している。
私の大当たりサイクルは、どうやら打ち止めのようだ。

不思議なもので、お金に不自由していないと物欲がなくなる。
性格的に、ひとつの物に固執して使い倒すので
元々物欲自体はそんなに発達していないのだが
お金があると、「いつでも買える」 と思って余計に買わない。

逆に貧乏な時は、あれもこれも欲しい。
しかも良い物が欲しい。
そして何とかして買ってしまう。
心細い時ほど頑丈な鎧が必要だから、物で補いたいのである。

お金はあるに越した事はない。
しかし私の経験上、お金がある時に限って精神がモロくなる。

小金では買えない “何か” が、自分に足りない気がして
心がどんどん飢えてくるかのようだ。
懐が暖かいと、かえって心が凍えていく。

逆に貧乏だと、そんな腹の足しにもならんようなものより
とにかく食料品! 日用品! と、やけに現実的で心が健全なのだ。

思うに人間ってのは、必ず “足りない何か” を
探す習性があるのではないだろうか。
裕福時と貧乏時の私は、どっちも私そのもので何の違いもない。
なのに、ありもしない足りない何かを探してしまうのだ。
(いや、人間的には足りないものだらけなんだが。)

富豪のステータスは、ボランティアだと聞くが
これも実は、似たような心理のような気がする。
恵まれない人々を救って、自分の存在価値を確認したいのだ。
そしてその存在価値が、善意で出来ていればなお良い。

人を救う事は、社会を作る事と同義である。
自分の中の空虚を、社会を構築する事で埋め
真に足りない何かは、自分の善行を見た神が補ってくれるはず。
意識せずとも、こういうプログラムなんじゃないのかな。

とりあえず私的には、今欲しいものだらけで
しかもそれが贅沢品じゃなく、入浴剤だとかフライパンだとか
ほんと必要な日用品であるとこが、良いんだか悪いんだか
いずれにしろ心は健康である。

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